GAINARE×Peeba Player’s focus / No.30 FW 岡野雅行 (第1回)
今回のPlayer’s focus Specialは「岡野雅行」選手をFocus!
スピードを活かしたプレーを得意とする岡野雅行選手。今回は、岡野雅行選手をもっとよく知るため、彼のバックグラウンドを追う。第1回 サッカーの面白さを知った少年、プロとして世界に飛躍する
-サッカーを知る
小学1年生の時にサッカーを始めた岡野選手。興味があって始めたのだろうと思っていたが、そのきっかけは意外であった。
「親に無理やり入れられたのがきっかけです。泣きながら入りました。僕、一人っ子だったので、集団でいるのが苦手だったんですよ。」
サッカーを選んだことに対しても、特別なこだわりがあるというわけではなかった。
「当時は、どちらかというと野球の方が人気あったんです。サッカーは珍しい存在だった。入学した小学校にサッカーチームがあったから、サッカーをしていただけであって、もしそれが野球チームだったら、僕は野球をしていたかもしれないね。」
最初のうちは、サッカーに前向きになれなかったが、嫌々ながらも練習をしていくうちにサッカーの面白さに気付いたという。それが、小学3年生の時だった。
中学進学後もサッカー部に所属。だが、成長期が遅かったために、周りにどんどん追いこされてしまった。
「みんな体が大きくなっていくんで、技術的にも離されてしまって。サッカーよりも他のことが楽しくなって、部活を抜け出す…なんてこともありました。」
中学校の卒業を控え、ブラジルへの留学を考えるようになった岡野選手。
「技術が追い付かず、どの学校にもサッカーで進学することができなかった。でも、どうしてもサッカーを続けたくて、どうしようかな…って思ってたときにカズさん(三浦良知選手)が本を出したんですよ。それを読んで、ブラジル留学を考えるようになりました。とは言っても、いきなりブラジル行ったところで何もできないですし。『島根で一人暮らしをしながら学校に通ったらどうだ?』っていう周りの意見もあって、島根に行きました。」
中学校を卒業すると、松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)へと進学。サッカー部があると聞いていたはずが、その高校にはサッカー部がなかった。
「学校にサッカー部を作ってほしいと頼んで、チームメンバーも集めて新設したんです。メンバーは、体育の授業でしかサッカーを経験したことがない奴等ばかりだったので、僕がいつも教えていました。一応監督はいたんですが、その人サッカー専門じゃなかったんですよ。サッカーを全然知らなくて、チームで動くときに付き添ってくれるだけというか。」
もはや岡野選手はキャプテン兼監督という存在だった。
「教えると言っても簡単なことですよ。ボールを止めて蹴るとかですけど、もうそっからでしたからね。みんなそこからすごく頑張ってくれてチームはどんどん強くなった。けっこう特徴のあるメンバーでした。すごい根性あるとか、足速いとか、ヘディングが強いとか。それぞれポジションにはめたら、いい感じにぴったりはまってね。」
時折、広島などからサッカーチームの監督を務めている方が教えに来てくれ、どんどん力をつけていったという。
「(映画)クローズじゃないけど、初めての奴らがどんどん強くなるみたいなね。」
試合でもその努力は、成果となってあらわれた。
「最初の方は、何十 対 0とかで負けていたけど、だんだんと点が縮まっていって、最終的には新人戦で3位になったんです。けっこう注目されるようになって、『優勝候補』として新聞に取り上げてもらうほどに強くなりました。」
今では、松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)のサッカー部は、全国高校サッカー選手権大会の常連校となり、強豪校として知られるようになったほど。その土台を作り上げたのは、彼だった。

-大学へ進学
高校を卒業後、日本大学へと進学した。
「昔の大学のサッカーチームというのは、1番タレントが多かったというか…1番人気があったんです。ほとんどが高校の時すでにサッカー選手として名を広めている人ばかりで、無名の僕が簡単に入れるようなところじゃなかった。僕は、2部(夜間に受講)にいたんですが、サークルに所属するために名前を書こうとしました。その時に、パッと壁を見たら『サッカー部募集、テストがあります』って張り紙があって、ダメ元で1回受けてみようと思ったんです。それで行ってみたら60人くらい来てて。僕、無名だし、島根の高校だし、『これは無理だ…』って思いましたね。テストは試合だったんですけど、4点ぐらい取ったんです。それが目立ったのか入部できました。60人受けて2人しか入れないんですよ。その後、先輩に呼び出されて『おめでとう』と言って下さったので、『ありがとうございます』と喜んでいたら、『じゃあマネージャーと洗濯係どっちがいい?』って言われて。結局そのために入れられたようなものですよね。なんとなく『洗濯係がいいです』って答えて1年生の時、本当に洗濯係しましたよ。」
練習はできたが、試合などには出場させてもらえなかった。スコア係や試合中の荷物番をしていることがほとんどだったという。
「途中から元社会人の方がコーチとして入ってきて、毎日練習を見てくれるようになって、実力の世界に変わりましたね。大学の2部ってけっこう遊びに走る人が多くて、僕も遊んでいましたけど、それでもサッカーだけは一生懸命でした。やっぱり自分が無名なのもあって、真面目にサッカーしていたら、コーチが初めて天皇杯初戦からのサブに入れてくれたんですよ。そしたら試合開始5分で4年生だったエースの先輩がいきなり骨折して、僕が交代で出なきゃいけなくなった。先輩達から『何でお前なんだよ』と野次られながらの出場でしたが、試合では6点か7点ぐらい取ったんです。それ以降はずっとレギュラーにしてもらえて、順調にどんどん登りつめていきました。」
そんな岡野選手に突然の出来事が訪れる、大学3年生のときだった。
「Jリーグの6・7チームぐらいからスカウトが来たんです。その中でも1番熱心だったのが浦和レッズだった。視察にも行きました。最初は鹿島アントラーズ、日立(現・柏レイソル)…最後に行ったのが浦和レッズだったんですけど、レッズが1番雰囲気が良かった。『レッズは良かったなぁ』と周りに話していたら、突然レッズの人が家に来て、大学を中退してチームにすぐ来てくれないか?とお願いされたんです。中退を選んだのは、そのとき僕は無名だったし、プロのチームからの誘いを断って次の年何か起きたら嫌じゃないですか。それならば、大学を卒業する前に勝負してしまおうと思ってプロを決めたんです。この日以来、大学が僕を特待生にしてくれてね。異例ですよ。今度は、特待生扱いになったことで、卒業してからじゃないとチームに入ることはできないという大学からの意見が出てしまって。日本大学からJリーグの選手になった人は今までにいなくて、大学が僕を離さなかった理由もきっとそれでしょう。しばらく話し合いになって最終的には、『日大卒にしましょう』ということでまとまり中退しました。」

-プロの世界へ
初めてのプロ経験。予想を超える【プロ】という厳しい壁が待ち構えていた。
「最初入ったときは、とにかくレベルが高くて、大丈夫かなって心配になりました。プレーのスピードも速いし、選手の体は大きいし、やっぱすごいなというのが印象でしたね。先輩も怖かった。口も聞いてくれないし、洗礼じゃないですけど、ボール持ったら『持つんじゃねぇよ』っていつも怒られていました。」
岡野選手のJリーグ初出場は、1994年3月12日の横浜マリノス戦だった。
「気分は最高でした。鳥肌立ちましたよ。選手権とかも出たことがなくて、今まで、サポーターとかたくさんのお客さんにすごい応援されるような場所での試合経験がなかった。陽のあたる舞台でやったことがないんです。だから、初めてお客さんがパンパンに入ってるところで試合出来たことが、すごい嬉しかったのを覚えていますね。」
この試合に出場したことで、頑張らなきゃいけない、何かを見せて行かないといけないと強く感じた。そんな岡野選手にとてつもない大舞台が待っていた。1996年にはAFCアジアカップ UAE大会、1998年にはFIFA W杯 フランス大会、1999年にはコパ・アメリカ パラグアイ大会に出場。なによりもW杯に出場したことが彼の運命に新たな光を差した。
「W杯に出れたことは素直に嬉しかったですね。僕がちっちゃい頃は、日本ってW杯に出たらいけないものなんだと思って見ていたんです。まず、予選があることを知らなかった。すぐ負けてしまって話題にもならなかったんでしょうね。」
W杯と言えば、『ドーハの悲劇』を思い出す。多くの人が衝撃を受けた試合となった。
「ドーハの悲劇があったのは、僕が大学生の頃。その試合があった日は、飲みに行ってて、試合があることをすっかり忘れていたんです。それで、家に帰ってテレビをつけたら日本が勝ってた。で、勝つ瞬間を見たいからトイレに行ってしまおうと思って、行ったんですね。そしたらその間に同点ゴールを奪われちゃって、悔しくてまた飲みに行ったっていう。まさか次の大会に出るとは思わないじゃないですか。その時は居酒屋でバイトをしていたし、プロになろうなんて考えてもいなかった。次の大会に出場して、予選に出たことにも驚いたけど、W杯のピッチに立ったときは『うわー、やべー!』って思いました。あれは出たもん勝ちですよ。」
1997年、フランスW杯アジア第3代表決定戦に出場した岡野選手。この試合は後に【ジョホールバルの歓喜】と呼ばれるようになる。
「ジョホールバルのゴールが1番自分の運命を変えたかなという感じがありました。」
岡野選手は延長前半から出場。
「あの試合で僕は何度もゴールを外していたし、あの時負けていたらサッカーを辞めていると思います。天国と地獄を見た。あの30分の間、どうしよう…どうしよう…としか思えなかったし、緊張して何もできなかったけど、あの中でゴール出来て勝てたというのは、僕の中で一気に気持ちが変わりました。やっぱり自信に繋がりますよね。初めてW杯に出れたことも。あの日以来、自分をもっと追究してレベルを上げていきたいと思いました。あの時以上に緊張することはもう一生ないでしょうね。」
2001年9月、ヴィッセル神戸へと移籍する。
「W杯に出た後、1度アヤックスへ移籍しました。アヤックスも僕のことを欲しいと言ってくれていたので。僕は、W杯で勝てない理由が、場馴れしていないことだと思ったので海外に行きたかったんです。だけど、結局レッズが帰ってこいというのでレッズに帰りました。それで帰ってみたらレッズはビリ、J2に降格したじゃないですか。なので、途中で帰って、チームがJ1に復帰しても、その時にはもうモチベーションがないわけですよ。何をモチベーションにしたらいいのか分からなくなってしまった。こんな状態でレッズにいたら自分が終わってしまうような気がして、神戸に移籍させてもらいました。刺激が欲しかったというか、自分の中で1からやり直したかったんです。」
しかし、2004年には再び浦和レッズに戻ることになった。これも異例の出来事である。
「神戸には最初レンタルで行っていたのですが、向こうが完全移籍にしたいと言うので、完全移籍をしたんですね。それなのに、次の年にはレッズが帰ってこいって言うんです。完全移籍をしてしまった以上それは無理なのに、異例の完全移籍でレッズに帰りました。不思議なことがけっこう起こるものです。帰るきっかけとなったのは、当時、カズさん(三浦良知選手)のお兄さんであるヤスさん(三浦泰年元選手)が神戸の強化部長をしていて、東京で一緒にご飯を食べた時に『岡野どうしたい?』って言うので、『全然神戸に残る気ありますよ。』って返したら『俺が岡野だったら絶対レッズに帰る』って言われた。それを受けて『じゃあ帰ります。』とレッズに戻りました。これがけっこういいタイミングで帰ったんですよ。タイトル6個取りましたから。最高のモチベーションでしたね。神戸に移籍したのが良かったんでしょう。表からレッズを見たときに、これほど贅沢なことはないなって思いました。だって、あんなにもお客さんがいっぱいいるんですから。俺はすごいとこでやっていたんだなーと感じました。」
2009年2月、戦力外通告を受けた彼は、TSWペガサスへ移籍。
「国内でチームが見つからなくてどうしようかな…と思っていたときに、香港の試合にゲストとして招待されたんです。向こうの監督…2チームくらいから欲しいと言われ、それが移籍のきっかけとなりました。」
在籍期間は2009年2月~同年6月と、短いものだった。
「随分とハングリーになりましたね。香港では、1チームに8人まで外国人が出れて、3試合でダメだったら帰らされるんです。うちのチームには、ガーナ・カメルーン・ブラジル…いろんな外国人がいて、その中でやるっていうのは、どこまでも自分を追及出来るいい機会だったので面白かったですね。香港はサッカー上手い人が少ないので、外国人をいっぱい入れるんですね。だから、相手チームにも外国人が8人いて、みんな身長189cmとかで背が高いんですよ。もうぶつかりあいのサッカーです。グラウンドの状態も悪いし、ファールも取らないし、とにかく喧嘩サッカーでした。『come on!』とかずーっと英語で言いあいしながらやっていて面白かった。」
第2回 ~ ガイナーレ鳥取への移籍が決まった岡野選手。彼が期待の星となる
第3回 居酒屋店長と野人、食について語る
Profile
岡野雅行(Masayuki Okano)
1972年7月25日生まれ。松江日本大学高等学校。日本大学。大学卒業後、浦和レッドダイヤモンズ(94年~01年8月)-ヴィッセル神戸(01年9月~03年)-浦和レッドダイヤモンズ(04年~08年)-TSWペガサス(09年2月~09年6月)-ガイナーレ鳥取(09年8月~)96年にはAFCアジアカップ UAE大会、98年にはFIFAワールドカップ フランス大会、99年にはコパ・アメリカ パラグアイ大会出場。[身長/体重]175cm/71kg

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